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リレーコラム うさぎの小箱

ワークショップセンターの使命について ~「おどるのこと」から~                                            港大尋氏

港大尋さんは2010年度主催公演ゴスぺルオペラ《トゥリーモニシャ》(作曲:スコット・ジョプリン/演出:大岡淳)において音楽監督を務め、公演を大成功へと導きました。2011年4月からは当館レジデンスアーティストとして、ワークショップや講座、ライブなど様々なシーンにご登場いただいております。ご自身の月見の里学遊館での活動を踏まえて、いま一度"ワークショップ"、そして"ワークショップセンターの使命"について考察していただきました。

「おどるのこと」のこと
 2011「ダンスバトルおどるのこと」の企画に携わった。前年度までの、いわゆるコンテスト形式の部門に加え、事前審査のない館内パフォーマンス部門を設けることとした。うさぎホールではコンテスト、そして時間をずらしながら、ロビー2ヶ所で同時にフリーパフォーマンス。学遊館の中とはいえ、ストリートのような雰囲気に包まれ、老若男女が楽しめる催しとなった。

 「ダンスバトル」という響きはどことなくヒップホップを連想させるけれど、蓋を開けてみれば、ハワイアン、ベリーダンス、新体操、チアリーディング、ジャズ、コンテンポラリーなどなど、参加者のジャンルは多岐に渡るものだった。欲をいえば、日舞や社交ダンス、あるいは袋井という土地柄から、サンバやカポイェラなども見てみたかったが、それは次回への楽しみにとっておこう。いずれにしても、学遊館が目指すべき多文化共生型の催しとしては、まずまずの成功だったのではないかと自負している。

 また、自身もミュージシャンとしてこのイベントに関わった。昨今のダンスパフォーマンスは、そのほとんどがCDなどの音源を用いる。音楽とダンスは本来切っても切り離せない関係にあるはずなのだが、生演奏のダンスパフォーマンスは今どき滅多にお目にかかれない。それだけではない。音源を繰り返し繰り返し再生することで、ダンスが硬直化しないか。身体が音源の、いわば奴隷になってしまってはいないか。結果、ダンサーとミュージシャンとが身近なようでいて、実は全く関われなくなってはいないか。

 そのような問題意識を抱えつつ、袋井市内の5人の小学生や袋井高校ダンス部20人の皆さんとワークショップを重ねながら、ステージでのパフォーマンスを組み立ててみた。小学生たちとロックを歌い踊り、高校生たちとはバッハのチェロソナタや平均律をベースに振付を一緒に考えた。ユン・ミョンフィ、坂本沙織、二人のダンサーの強力なバックアップを得て、大人も子どもも互いが共に刺激的な時間を過ごすことができたように思う。ポカーンとしながらも一所懸命に歌詞を覚えようとする小学生たち。アフリカの打楽器が聞こえてくると、目がキラキラと輝く高校生たち。ダンスと音楽との関わり方をテーマに、時間を割いて具体的に作業できたことは、自身にとっても大きな経験だった。

 年齢・性別を問わないこと。ジャンルや経験の有無を問わないこと。このことは「おどるのこと」の前提であるだけではない。誰もが気軽に参加できる、訪問できる、そのような場所として「月見の里学遊館」が機能しなければいけない。今から200年以上も前に、カントは地球上の誰しもが等しく持つ訪問の権利について書いている。

 この権利は、地球の表面を共同に所有する権利に基づいて、たがいに交際を申し出ることができるといった、すべての人間に属している権利である。地球の表面は球面で、人間はこの地表の上を無限に分散していくことはできず、結局は並存して互いに忍耐しあわなければならないが、ところで人間はもともとだれひとりとして、地上のある場所にいることについて、他人よりも多くの権利を所有しているわけではない。『永遠平和のために』(岩波文庫pp47-48)


 地球は丸い。この動かし難い事実から、共生することの意義と困難とを端的に述べている。無論この文章は、当時進行していた帝国主義や植民地主義に対する警鐘であり、今なお影響力を持つ平和論の古典ではある。けれども、学遊館のみならず、すべての公共の施設がどうあるべきなのか、どう開かれているべきか、を問いかけているようにも読み取れる。そして、公共とは何か、という根源的な、そして今日、再び考えてみるべき思想の課題を提示しているはずだ。

 はっきりしているのは、誰しもが訪問する権利をもち、そして、その場所・空間において、主人は常に訪問される義務・使命を負う、ということだろう。あらゆる立場を超えて、あらゆる門戸に開かれ、あらゆる客人を歓待すること。書くのは易しいが、実行することの困難も敢えて承知しつつ、そのようにして人が出会い、集うこと。「互いに忍耐しあわなければならない」とはいえ、それも含めて初めて、訪問の権利が成就され、歓待の義務が果たされることになるのかもしれない。

  あるいは、 カントが「すべての人間に属している権利」と書くときに、その人間とは誰のことを指しているのか、と考えてみる。例えば何らかの「障がい」を抱えておられる方々。異なる文化、異なる国籍に属する方々。自活のできない幼児など、他者の何らかのケアがないと生活に不自由してしまうような人をどう歓待できるのか。学遊館が取り組んだザクセン声楽アンサンブルの、障がい者のためのワークショップや、障がい者の活動グループ「ピチャカマジカ」への支援などは、今後が十分に期待される。あるいは語学ワークショップはどうか。異文化理解という枠組みでの取り組みは十分に行われているか。検討を要するだろう。

  子どもとの取り組みは、学遊館が積極的に行ってきた部門である。自身も4ヶ月間ここに通いつめたのだったが、このワークショップセンターは無論、文科省管轄下の学校ではない。だから成績をつける必要もないし、教科書を配ってカリキュラム化する必要もない。厚労省管轄のような保育園・託児所でもない。(ちなみに少年院は法務省の管轄であり、どのようなプログラムがなされているのかほとんど謎。法務省のHP等をご覧いただきたい。)
  では、そのようなお国の役所からフリーではあるが、だが公的機関である学遊館において、彼ら/彼女らは、誰と何のために出会うのか。何を知り、何を持って帰るのか。ただただ遊ぶ、というだけであれば野原に集まればいい。けれども、それだけではセンターの機能が活かせない。

 学校や福祉施設などの空間が、あくまで国ベースであるとするならば、市などの自治体ベースで何が可能か。学校ではできないこと。託児所ではできないこと。学力テストとは無縁で、旧文部省唱歌とも無縁なこと。それは一体何だろうか。学校が英語一辺倒であるのならば、ブラジル・ポルトガル語を積極的に取り入れてもいい。学校でクラシックしか勉強できないのであれば、そうではない音楽をしてみてもいい。演劇を体験する、落語に耳を傾ける。国語・算数・理科・社会などのように分類不可能なもの。あるいはそのどれにも属するような複合的かつ脱構築的な学習があってもいい。学遊館ならではの強力なコンセプトとして、そのような対学校、脱学校というような理念を掲げてみたらどうだろう。

 いずれにせよ、人と人との間にある垣根を取り払い、教科と教科との垣根をも取り払い、ともすると硬直化してしまう悪しきジャンルを流動化させること。ダンスであれば、様々なスタイルを認め合い、同じ空間を分有すること。ダンスは、音楽との境界が曖昧な身体の活動であり、民俗学や人類学に属し、人類の最古の活動という意味では考古学にも属する。そのような人の本質的な知の活動であると同時に、誰もが気軽に参加できるごくシンプルな活動でもある。ダンスとは、カントの著した「永遠平和のための」理念を実現・体現する、ひとつのモデルになる可能性があるだろう。
(次ページに続く)
 


ゴスペルオペラ『トゥリーモニシャ』ピットにてカーテンコールを受ける港さん。(2010年3月) 『おどるのこと』ダンサーのユン・ミョンフィさんとの共演。(2011年12月)
子どもたちとのワークショップ『港大尋と遊ぼう!歌おう!踊ろう!』 同左
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港大尋氏(作曲家/ピアニスト/月見の里学遊館レジデンスアーティスト2011)
プロフィール
港大尋
(作曲家/ピアニスト/月見の里学遊館レジデンスアーティスト2011)
バンド「ソシエテ・コントル・レタ」を率いて、詩人やダンサーとのコラボレーションなど、幅広く活動する。CDに自身の弾き語りを収録した『声とギター』の他、『がやがやの歌』『風は海の深い溜息から洩れる』『ありったけのダイナシ』『届くことのない12通の手紙』などがある。劇音楽の作曲・演奏など多数。著書に『記憶表現論』(共著、昭和堂)など。また、大学で講師を務め、小学校に出かけ子どもたちと作品を作り、傍らサディスティック・ミカ・バンドにゲスト参加など、様々な現場で活動を展開。月見の里学遊館では2011年3月にスコット・ジョプリン作曲のオペラ『トゥリーモニシャ』のアレンジと音楽監督を務めた。
第八回 港大尋氏(作曲家/ピアニスト/月見の里学遊館レジデンスアーティスト2011)
第七回 戸舘正史(月見の里学遊館企画スタッフ/アートマネージャー)
第六回 戸舘正史(月見の里学遊館企画スタッフ/アートマネージャー)
第五回 平井洋氏
第四回 山森達也氏
第三回 鈴木滉二郎氏
第二回 倉田布美江氏
第一回 大岡淳氏インタビュー